園主のひとり言

 車好きで、将来は自動車メーカーのエンジニアを目指す少年が、どうしてトマト農家になってしまったのか?そんなこんなを少しお話したいと思います。「人生は、面白い!そして、何も無駄なことはなかった。」これが、63歳になった私の今の感想です。

 私が就職を目指した頃は、第一次オイルショックの真っ最中で、超就職難!あえ無く、エンジニアの夢は絶たれてしまいました。その後、兄の経営する自動車整備工場に15年つとめましたが、兄との経営方針の違いから、強く独立を望むようになりました。しかし、何で独立するか?

 ここで私が選んだのが、富山では数少ない水耕栽培によるトマト農家でした。兼業農家を私が継いでいましたし、32歳ごろに農業の面白さに目覚めていました。「植物は、努力を裏切らない。手をかけてやれば、その分ちゃんと答えてくれる。」そんな思いが、サービス業に携わり人間関係のむつかしさを痛感していた私には、とても魅力的に映りました。そして、どうせやるなら、このあたりで誰もやっていない農業のスタイル、天候にあまり左右されない施設園芸の方が、収入も安定して有利なのではないか。そんな思いから選んだ結果が、トマト農家だったのです。この思いは、後から大きな勘違いだと、思い知らされることになるのですが。

ハウスを建て水耕栽培でトマトを育てるには、大きな資金が必要でしたし、そんな経験どこにもないため、家族の反対は、大変なものでした。そこを何とか説得して、36歳で独立。ミニトマトの方が収入が安定しているとのメーカーの勧めで、300坪のハウスでミニトマト農家としてスタートを切りました。

トマトの販売先は、地元高岡青果市場。担当者に頼みに行ったところ、ここでは少ない品目なので、喜んで取り扱うとの事。「良いトマトを出して下さい。」と激励されてスタートを切りました。1年目は、まずまずの好成績。これなら、徐々に面積を増やせば、何とか食べていけると、思ったのですが、2年目で、早くも大問題発生!韓国から、ミニトマトが大量に輸出されるようになったのです。相場が大暴落。どんなに良い商品を市場に出しても、半値以下!担当者に談判しても「この価格でも、地元のものとして優遇している。」との返事。これでは全く生計が立ち行きません。

「相場に左右される農業をしていても、無駄。自分で価格の決められる農業を目指さない限り、成長はない。」と、強く決意し、その頃、高値で珍重されていたフルーツトマト作りに、挑戦を決めたのです。そして3年目の夏に、フルーツトマト作りに挑戦する150坪ハウスを、なけなしの資金を投入し、建設。始めることとなりました。しかしトマトだけでは、全く食べていけません。

そんな状況を見ていた自動車整備士時代のお客様が、手を差し伸べてくださいました。「お前、機械の図面かけたやろ。忙しくて設計士探しとる工場あるから、そこ手伝ってみんか?」と。確かに機械科を卒業しているので、機械の図面を描くことはできますが、社会へ出てからの経験はゼロ。こんな私に出来るだろうかと、不安はありましたが、とりあえず内容をお聞きしようと、その会社を訪問しました。そこの社長は温和な方でしたが、いきなり私を取引先の打ち合わせに同行させ、打ち合わせが終わると、「後は、よろしく。」と、すべてを私に託すのです。工作機械のボディー部分、カバーを作る打ち合わせで、内容は何となくわかる程度。納期もしっかり決められ、とんでもない仕事を背負い込まされたと、一睡もせず朝まで悩みましたが、これを何とかこなさない限り、私に明日はないと、必死に図面を描き、何とか納期に提出しました。経験もない私になぜ、図面が書けたのか?それは、自動車整備士時代の経験が役に立ったのです。整備士は、悪くなったパーツを交換します。が、それには、いくつものパーツを外さないとできない仕事が多く、機械の構造、組み立て方が分からないとできません。そんな私が描いた図面は、組み立てやすいと好評だったのです。そしてその後は、夜中に起きて朝まで図面を描き、日中はトマト作りと、二束のわらじ生活が始まりました。

 フルーツトマト作りは、当初全く軌道に乗りませんでした。甘いトマトにはなるのですが、商品になるようなきれいなトマトが全然できません。ほとんどが、頭に傷を持つトマトばかりで、廃棄の山を作る日々。それでも、図面描きで得た軍資金を投入できたので、色々挑戦し、3年後には徐々に形ができ始めていました。塩を与えることにより水分を抑えると、甘くなることは分かりましたが、季節による塩分量や、その他の肥料の割合など、分からないことだらけを徐々に克服。4年目からは、富山湾固有の海洋深層水により塩分を与える事に。そんな挑戦が、20003年の3月、地元ローカル新聞で紹介されました。

 この記事は、地元では物好きがいる位の反響で、ほとんど影響はなかったのですが、たまたまテレビ朝日の「人生の楽園」制作スタッフの目に止まったのです。4月に制作スタッフより、取材させてほしいと電話がありました。しかし富山は、テレビ朝日が放送されていない地域でしたので、見た事もないテレビからのご依頼でしたので、丁重にお断りいたしました。が、その後、何度もお電話頂き、渋々承諾することになりました。5人のスタッフが1週間かけて、我が家を撮影。2003年6月29日、放送となりました。これからが、地獄の日々の始まりだったのです。(@_@。

「放送後、2~300の注文が舞い込みます。覚悟しておいてください。」とのことでしたので、6月末で終了する予定の作を、7月10日ごろまで伸ばして対応する覚悟で放送に臨みましたが、思惑は、大きく外れました。

 放送の終了5分前から、全国からご注文の電話が鳴り始め、鳴りやんだのは、深夜2時過ぎ。そして早朝4時からまた、電話が鳴りやみません。

1日で電話ご注文だけで、500件! 1件も注文の無かったHPには、数えきれないご注文が入り、サーバーがパンク寸前。朝から遠方ナンバーの車で買いに訪れる人が絶えず、早々に完売御礼。

 夫婦2人の農家に、全く対応できません。留守番電話にしないと、トマトの収穫も出来ない状態。その留守電も、夕方には、テープが伸びてしまいダウン。止む無く、受話器を上げたままに。m(__)m 

HPの注文ページは、早々に閉じて、頂いたご注文には、「現在大変込み合っており、いつお届けできるかわからない状態。お待ちいただけるお客様のみ、対応させていただきます」と、ご返事いたしました。

 電話は、出られる時だけ対応していましたが、3日後からは、苦情の電話ばかり。「何度かけても電話中!どうなっているんだ!」「注文も受けられない農家が、テレビに出るな!」 妻は、電話恐怖症となってしまい、1年は、電話に出てくれませんでした。また、電話がつながらないので、電話番号を間違えたと思うお客様も多く、よく似た電話番号にかけられるようになってしまいました。そんな電話番号の方々時からの、苦情が多く寄せられ、また謝りの日々。こんな状況が、約2週間続きました。心労で、ヘトヘト。二度とテレビには、出るまいと思うのでした。 続きは、次のページで